15分ほどが過ぎ、やっと僕の番になった。
ボックスに入り、先ほどの番号を取り出し、
電話にコインを入れようと、ふと挿入口を見る。と、
そこには見たことも無いような妙な形の穴が開いていた。
そして『Gettoni』と書かれた
「あっ!」そうだ。
『イタリアの公衆電話には
ジェットーネという専用のコインを使用します。
ジェットーネは街のバールやタバコ屋さんで
購入できます。』
というガイドブックの一文を思い出した。
現在ではもうジェットーネ自体なくなってしまったが、
当時のイタリアではこれが常識だった。
「!!!」
振り向くとそこには
相変わらずの電話待ちのゆがんだ行列…。
「うわぁぁぁぁぁ!いやだぁぁぁ」
叫び出したい衝動に駆られながらボックスを出て、
駅構内のタバコ屋をさがす僕。
勿論、荷物も一緒だ。
後ろで並んでいた奴らがニヤニヤしながら僕を見送る。
ようやく売店を探し当て、
「ジェットーネ…プリーズ」
と、蚊の啼くような声で告げる僕。
僕の心臓は縮み上がっていた。
先ほどの場所に戻ると
電話待ちの人数は倍ほどになっている。
もうこれは自分で電話を掛けるのは無理だ。
仮にまた順番待ちをしたとしても、
次にまた何が起こるか解らない。
誰かに頼んでみよう…。
絶望感でぺしゃんこになりながらも、
近くでぺちゃくちゃ喋っていた
おそらく大学生らしき集団に声をかけてみる…。
「すみません、あの…英語しゃべれますか?」
集団の中の一人の少女が答えてくれた。
「ええ、少しならね…。何か困ってるの?」
安堵感で僕は泣きそうになった。
「はい。実はここで人と待ち合わせをしているんですが、
時間を過ぎてもまだ来ないんです。」
「あら、そう。」
「あ…の、エキセルシャー…という、あの…、
アコーディオンメーカーの人なんですが……
御存じですか…あの、エキセルシャー…です。」
大人になっちゃった今にして思えば、
そこから20キロも離れた
小さな街にあるアコーディオン工場のことを、
その娘が知っているわけもなく、
その質問は、例えば新潟駅でたまたま歩いている女学生に、
燕市の洋食器業者、
斉藤スプーン製作所を知っているかを問うようなもの。
あるいは名古屋駅の地下街で
鼻歌唄いながら買い物をしているおばちゃんに、
浜松のすっぽん養殖業者、
有限会社丸源養殖は御存じですよね?と
英語で話しかけるのにも似ていたかもしれない…。
「エキセル…何?」
「エキセルシャーです。」
僕はいかにも堂々と答えたものだった。
「エキセル…シャー…?
あなた、何かその名前が書かれたものは持ってる?」
「はい、はい。これです、これです。」
僕は例の手紙を彼女に見せた。
「ああ、これはねえ、エッチェルシオールと読むのよ。」
「は、はぁ?」
「いいわ。わたしがここに電話してあげる。
たしか、あなたさっきから電話に並んでいたわよねえ。」
「はい、そうなんです。でもジェット−ネが無くて…。
今、そこの売店で替えてきました。」
「オーケー!ついていらっしゃい。」
彼女はすっと身をひるがえすと、
電話ボックスの方へ歩き出した。
僕は彼女を抱きしめたい気持ちで、
ガラガラと荷物を引きずりながら後を追った。
彼女は電話待ちの列の一番前の人と何やら交渉すると、
「こっちへいらっしゃい」と、僕を手招きした。
どうやら事情を説明して場所を譲って貰えたようだった。
「ソーリ−、ソーリー」ガラガラガラガラ…と、僕。
またもやみんなの視線を一身に浴びてしまう。
が、もう赤面しない、僕。
彼女がダイヤルをまわしながら、
「あなた、名前は?」と聞く。
「コバヤシ…です。」と僕。
「ああそう…コ、バ、ヤ、シ…」
次の瞬間、受話器を耳に当てている彼女の顔が、
ちょっと曇った。
"MA! NO"
なんてひとりごとを言っている。
受話器を下ろすと、彼女は僕に言った。
「あのね、エッチェルシオールは本日ストライキで、
休業だって。
お気の毒だけど……。」
『イタリアの企業はとにかくストライキだらけ!
バスや電車も一ヶ月に2、3日は
ストップしてしまうこともしばしば。
旅行者は充分注意して下さい。』
絶望感とともに、
またまたそんなガイドブックの記事を思い出した。
遥々海を越えてやってきたこのイタリアで、
僕はいったいどうなっちゃうの?
鉛色のアドリア海が、ちょっとだけニヤっと笑った。
イタリア独特のテンポ感で遅れに遅れ、
アンコナ駅に到着したのは午後2時近くだった。
僕は生まれて初めてのアドリア海に胸を踊らせながら、
馬鹿デカイうす緑色のスーツケースと、
アコーディオンの入った
真っ黒なハードケース、
そして首からは例の大きな御守り袋を下げたまま、
アンコナ駅のホームに降り立った。
ここに僕が使用している楽器メーカー、
エキセルシャーアコーディオン社の人が
出迎えに来てくれている段取りになっている。
小雨が降り注ぐ長いホームを、
列車を降りた人々が足早に歩いて行く。
…が僕の出迎えらしき人影は、どこにも見当たらない。
最後にエキセルシャー社から受け取った手紙を、
僕は例の大きな御守り袋からとりだして、確認してみた。
We are going to come to the ANCONA STATION
at the train's arriving time.
と、そこには確かに書いてある。
「え? い、いやちょっと待て!
アンコナ、ステーション、ってことは…、
ホームではない…のかな?
え? で、でもトレインズ、アライヴィング、タイム、
汽車の到着時間って書いてあるから
ホーム……でしょ…? 違う…の?」
さんさんと降り注ぐ小雨が、
僕のおニュ−の白いジャケットの
肩を濡らしはじめていた。
ホームからは乗降客の姿も消え、
真っ白いジャケットの僕ただひとり……。
ホームで待っていてくれるものだと思い込んでいた僕は、
ちょっと肩すかしを喰った感じだったけど、
「ん!? そ、そうか、
わかった、待ち合い室だ!
待ち合い室で待ってくれているんだ。
そうだよな、雨だもんな。」
と、気を取り直すことにした。
(だいたいイタリアの駅に待ち合い室なるものが
存在するのかどうかすら定かでない僕だったわけだが…)
僕は
馬鹿デカイスーツケースを左手で、
アコーディオンのトランクを右手で
押しながらホームを歩いた。
もちろん首からは例の大きな御守り袋を
下げたまま…。
しかも、ホームから地下通路へと降りるのに
エスカレーターなんかがあるわけもなく…。
(もちろんのぼる時だって然りだ。)
駅の入り口付近にあった待ち合い室は、
グレーや茶色の地味なコートを着た人々で
ごった返していた。
煙草の煙でムンムンだ。
しかもガヤガヤとやたらうるさい。
勿論全員イタリア人だ。
そこにいきなり、真っ白い派手なジャケット姿の日本人が
大きな荷物と共に登場しちゃったわけだ。
決して大袈裟ではなく、そこにいた恐らく全員が
話しをやめて、一斉に僕を見た…だろう。
全員と目が合ってしまって……僕は、いきなり赤面した…。
「ああ、はずかしい…」
が、そこには肝心のエキセルシャーアコーディオン社の
使者らしき姿は見当たらなかった。
おかしい!
僕はもう一度、御守り袋からさっきの手紙を取り出した。
「ん? そういえば…
トレインズ、アライヴィング、タイム…
つまり汽車の到着時間にアンコナ駅に行きます…だから…
ん?んん!?
僕の列車は到着予定時刻を遥かに
過ぎてしまって着いたわけで…
!!
えっ?か、か、帰っちゃったってこと?
………………。
いや、いや、いや、いや、いや、いや、
そんな馬鹿なことあるわけないじゃないの!!!!!!
こちらは遥々日本からやって来たんだよ!
大切なお客さまよ!!
違う!?
ち、違う……の?」
しかし、待てど暮らせど、それらしき人物は現れない。
相変わらず、待ち合い室の人々は無遠慮にじろじろと
僕の方を見ている。
突き刺さるような目線がチョーチョーうるさい。
僕は震える右手でもう一度さっきの手紙を取り出した。
そこにはエキセルシャー社の住所と
電話番号が書かれていた。
「よし、よし、これだ!これ、これ、これ、
電話だ、電話だ、電話しちゃおう!
そうだよ、電話で確かめようよ!
そうだった、そうだった。ハハハ、ハハ、」
待ち合い室に2つあった
公衆電話ボックスのひとつは故障中で、
もう1台の方には4人ほど並んでいた。
僕は彼らの一番後方に並ぶことにした。
何しろイタリアのガイドブックのどれを見ても、
『置き引き、かっぱらいが日常茶飯事。
イタリアを旅行する時は
たとえどのような状況であろうとも
全ての荷物は肌身離さずに!!!』
と書かれていたので、
僕は半端ではない量の荷物と共に
この電話待ちの列に加わった。
田舎の駅で、それはホントに奇妙な姿だった。
僕のすぐ前の男が振り返り、じーっと僕の顔を見ている。
そんな風に他人からじっくりと見つめられた経験が
皆無だった僕は、
…………また、赤面した。
とにかくすぐ赤面しちゃう自分が腹立たしく、恥ずかしく、
所在なくそこにうつむいていると、
毛皮を着たおばさんが僕の前の男になにやら話しかけ、
そして
いつのまにか僕とその男の前に居座ってしまった。
「お、おばさん!割り込みだよ!!」
でも、それをどう言っていいのか解らずに、
…………結局、またうつむいてしまう情けない僕。
それにしてもひとりひとりの電話が
信じられないほどに長い。
これだけの人が待っているのだから、
普通日本だったら遠慮して、用件もそこそこに
そそくさと切ってしまうのに。
もしかしたらこの人達には『遠慮する』という
概念そのものが存在しないのかも……。
僕の後ろにも何人かが列を作り始めた。
が、それは所謂一列ではなく、
ごくラフな『ゆがんだ塊』だった。
ともすれば後ろに並んでいる筈の人が、
平気で僕の横や斜め前にしゃしゃり出てきちゃうのだ。
そういえば……僕はふと思った。
世の中、一列に並ぶ必要なんて、
実は無かったりするのだろうか……。
が、目的意識と向上心満載のその時の僕に、
そんなことが解ろう筈もなく……
僕は順番を奪われないように、
必死に体中と荷物で主張し続けた。
僕があんまり前の男にぴったりとくっつくものだから、
さすがにそいつはもう僕を見なくなった。
それにしてもエキセルシャーの使者はまだ現れない…。
どうなっているんだ。
『イタリア人は凄くいい加減!約束をしても平気で破る。
彼らにとってはそれが当たり前なのだから、
郷に入っては郷に従えという言葉通り、
こちらもそのつもりでつき合った方がベター!』
というガイドブックの言葉を思い出した。
ここは日本じゃない…。
まさか、そんな……。
また旅に出たくなる。
なぜこうも落ち着きがないのかな……僕は。
多分あれが、いけなかったのだ。
あの時のあれ、が。
あれも……ちょうど今の季節だった。
僕が最初に旅立った日。
僕の右手にはアコーディオンの入ったトランク、
左手には大きなスーツケース。
首からはパスポートとトラベラーズチェックと
日にち指定のされていない、帰りのエアチケットが入った
大きな御守り袋のようなやつを下げ、
ローマのテルミニ駅からアンコナ行きの列車に
僕は飛び乗った。
列車はアペニン山脈を越え、
反対側のアドリア海へとひた走った。
空はずうっと曇って、今にも大粒の雨が降り出しそうだ。
僕の心は200パーセントの不安と
3パーセントの期待とで今にも潰れそうだった。
もう何もかもほうり出して逃げ出したかった。
特にこの大きな楽器…。
が、そんなことをできる筈もないことは、
僕自身が一番よく知っていた。
空港で泣き崩れていた母の姿が頭をふとよぎる。
そりゃあ…戻れないよなぁ。
何があっても。
思いにふけっている僕の目の前に、
いきなり灰色の海が現われた。
でもそれは、僕が子供の頃よく見た日本海の冷たい海とは
明らかに別なものだった。
もっともっと柔らかい、暖かみを持った海だった。
灰色というよりはクリーム色といった方がしっくりくる。
暫く窓の外のそれにみとれていると、
いつの間にかそのクリーム色は
淡いエメラルドブルーに変化し、
しかも海岸に荒々しく打ちつける、
白い波もはっきりと見えてきた。
それはまるで僕を手招きしているかのように…
僕には、見えた。
…アドリア海の街へようこそ。
旅は今始まったばかりだ。